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隋朝の初め、天台大師智顗(ちぎ)が創始した。智顗は各地を遊学して「法華経」や「大智度論」をまなんだのち、浙江省の天台山にこもって天台教学を確立した。彼は釈迦の説法の違いに着目し、5つの時代にわけて仏教の諸経典を体系的に分類し(五時八教)、その最終時に属する「法華経」を軸にして諸宗の教学を総合した。また、止観を中心とした修行法を体系づけ、理論面と実践面をともに重視する新しい教学体系をうちたてた。智顗の主著「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」は天台三大部または法華三大部といわれる。
天台宗の教学は、華厳宗の教学とともに中国仏教の二大思想として展開し、後世に大きな影響をあたえた。智顗のあとを弟子の灌頂(かんじょう)がついで天台宗の教団の基礎を確立し、中唐には湛然(たんねん)が三大部の注釈書などをあらわし、華厳思想をとりいれた教学を展開した。その後、戦乱などによって中国仏教全体が衰退したが、宋代には知礼(ちれい)らが70年におよぶ活発な教学論争をくりひろげた。明代以降は禅や浄土思想(→浄土教)との融合がすすみ、明末には智旭(ちきょく)が天台宗の復興につとめた。
天台山
中国の名山。(その地の分野が、天の三台星に応ずるところから名づけたという)浙江省天台県北にある。仙霞嶺山脈中の一高峰。赤城・仏隴・洞柏・瀑布などの諸峰を擁し、八葉覆蓮の形をする。昔から道教の秘境とされたが、陳の太建七年(五七五)、天台宗の始祖智者大師智顗(ちぎ)がこの山にはいって天台宗を開き、天台教学の根本道場となった。
(伝教大師が天台宗を広めた山であるところから)「ひえいざん(比叡山)」の別称。
智顗(ちぎ)
中国南北朝から隋初の僧。天台宗の開祖あるいは第三祖。天台山に入り、禅観の実践を基盤に天台教義の雄大な体系を確立。陳・隋の諸王に招かれ、講説。著には「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」の天台三大部のほか、多くの経典注釈書や実践論がある。(五三八~五九七)
天台大師 天台宗の開祖、中国隋代の智顗(ちぎ)の称号。
日本天台宗は、比叡山をひらいた伝教大師最澄を開祖とする。最澄は804年(延暦23)に入唐し、天台山で湛然の弟子から天台教学とともに、密教、禅、戒律もまなんで帰国し、806年に比叡山でそれらを融合した天台法華宗をひらいた。奈良仏教からの自立をめざす最澄の運動がみのって死後7日目に設置がゆるされた大乗戒壇をめぐっては、南都諸宗(→南都六宗)との間に論争がまきおこり、なかでも法相宗の徳一との、法相宗と天台宗の優劣をめぐる「三一権実(ごんじつ)」の論争は有名である。
総合仏教であった日本天台宗は、最澄の死後、密教化が強まった。最澄の門下の円仁、円珍は、ともに入唐して密教の充実をはかり、のちに安然が大成した。真言宗の密教を東密とよぶのに対し、天台宗の密教は台密とよばれる。
円仁の流れをくむ18世天台座主良源は天台宗を仏教界の中心におしあげたが、密教の理解についての円仁と円珍以来の対立は、両派の門徒間の亀裂を深め、10世紀末に良源が死去すると、円珍の門徒3000人余は比叡山をおわれて園城寺(おんじょうじ:三井寺)にうつった。以後、比叡山を山門、園城寺を寺門と称し、両派は僧兵をだす争いをくりかえした。
良源の弟子には覚運や「往生要集」をあらわして日本念仏思想の基礎をきずいた源信らが輩出した。源信の門流を恵心(えしん)流、覚運の流れを檀那(だんな)流とよび、両派はのちに八流にわかれた。これらの分派では、人間は生まれながらにしてさとっているとする本覚思想や、奥義を師から弟子へ直接つたえる口伝法門が盛んだった。
源信らによって教義づけられた念仏思想は叡山浄土教ともよばれ、法然や親鸞など鎌倉浄土教を生む土台となった。また栄西、道元、日蓮といった鎌倉仏教の開祖たちも比叡山にまなんだ。室町時代には真盛(しんぜい)が天台宗の中にあって、天台の戒律と称名念仏を一致させた戒称二門の教えを成立させた。
比叡山はその後、織田信長の焼き討ち(1571)により全山焼失し、天台宗の勢威もおとろえたが、江戸時代になって復興がはかられた。徳川家に尊崇された天海が上野に東叡山寛永寺をひらき、比叡山、日光山輪王寺とともに天台三山と称して、天台座主と輪王寺宮をかねた管領宮が仏教界に君臨した。また、比叡山の守護神である山王とよばれる日吉大社の神を仏の垂迹(すいじゃく。→神仏習合)とする信仰がひろまり、山王神道が成立した。
明治維新の神仏分離によって神社と切りはなされて以後、天台宗は各派が独立し、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のほかに、園城寺の天台寺門宗、西教寺の天台真盛宗、大阪四天王寺の和宗、東京浅草(せんそう)寺の聖観音宗などが成立して今日にいたっている。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.