TOP > 栄西 1141~1215 一休,白隠
栄西 1141~1215
一休(いっきゅう),白隠(はくいん) 栄西(えいさい)は
「公案」を重視する「看話(かんな)禅」 禅問答により、
自らの仏性に目覚め、悟りに至る。
経典 特になし
仏教の聖典をあたえれれたものとして学ぶのではなく、
それを説いた仏の心そのものにたち帰って、自分自身で
直接体験しようとする
本尊 釈迦如来 右側 達磨大師 左側 観世音菩薩
中国で発展した禅宗の1宗派。達磨ののち、6祖慧能にはじまる南宗禅は、黄檗希運(おうばくきうん)にいたって豪放で自在な気風を生んだ。この禅風をうけついだ高弟の臨済義玄(ぎげん)が臨済宗の開祖となった。7代目の楚円(そえん)の門下から黄竜慧南(おうりょうえなん)と楊岐方会(ようぎほうえ)がでて、黄竜派、楊岐派をたてた。この2派は中国禅宗の五家七宗の中でもっともさかえた。
日本の臨済宗
日本臨済宗の開祖となったのは栄西である。栄西ははじめ比叡山で天台教学をまなんだが、南宗禅をまなぶため、1168年(仁安3)と87年(文治3)の2度にわたり中国に渡航した。黄竜派7世虚庵懐敞(こあんえじょう)のもとで臨済禅をまなび、91年に帰国した。帰国後は博多に聖福寺をたてて、禅を布教した。ついで、幕府の信任をえて鎌倉に寿福寺を開創し、1202年(建仁2)には将軍源頼家が京都に建立した建仁寺に開山としてむかえられた。栄西の法系を千光派といい、禅密兼学の優秀な学僧を生んだ。
1211年(建暦元)には楊岐派7世蒙庵元聡(もうあんげんそう)のもとで修行していた俊(しゅんじょう)が帰国し、はじめて楊岐派の法系をつたえた。鎌倉時代から室町時代にかけては、中国からの渡来僧が数多く来日した。彼らは宋風の純粋禅をつたえ、鎌倉と京都の官寺を中心に五山派を形成して宗教界に君臨し、宗教・芸術の面でも大きな功績をのこした。五山派の衰退とともに大徳寺と妙心寺が台頭し、江戸時代にはいると白隠がでて、独自の公案を重んじる法系を確立した。1654年(承応3)には楊岐派24世の隠元が来日したが、黄檗宗をたてて別宗とした。臨済宗には現在、京都・鎌倉の大寺を本山とする14派がある。
平安末期から鎌倉初期の高僧。中国、宋に2度わたり、臨済禅(→禅)を日本につたえ、臨済宗をひらいた。備中(びっちゅう)賀陽(かや)氏の出身。おさなくして仏教の教学に興味をもち、14歳のとき比叡山延暦寺で受戒、19歳のとき伯耆(ほうき)大山寺(だいせんじ)で天台密教(→密教)の奥義をまなんだ。
はじめて中国にわたったのは、1168年(仁安3)、28歳で明州に数カ月間滞在した。この地は南宋禅が隆盛をきわめていたので、栄西の関心も禅にうつったと思われる。
帰国後は博多湾に面した今津にいて、再渡航の機会をまったが、そのうちに南宋禅に対する関心から、インドにわたって仏跡を巡礼して仏法再興の思いが深まった。 1187年(文治3)、南宋の臨安府に着き、陸路インドにはいることをねがったが、ゆるされず、帰国の船が難破して温州に漂着した。その地で天台山万年寺の虚菴懐敞(こあんえじょう)に師事、3年あまり真剣に南宋禅の修行にはげみ、明菴(みょうあん)の道号をさずけられた。91年(建久2)に帰国してから九州各地をまわり、95年には博多に聖福寺をたてて、戒律を重視する禅をひろめる第一歩とした。
しかし延暦寺の反発にあい、「興禅護国論」をあらわして弁明するが、布教を禁止される。これによって、真の禅をひろめる決意をかえって強め、鎌倉にうつって、鎌倉幕府の北条政子に近づき、寿福寺の建立に協力した。その後京都にある幕府の直轄地に建仁寺をたて、さらに東大寺の復興に力をつくすなど、ひろく日本仏教の中興につとめた。また「喫茶養生記」をあらわして、喫茶の風習をひろめたり、唐様(からよう)の書道の開拓者でもあった。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.