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神道の歴史

神道の歴史

神道(しんとう)

日本人の民俗宗教。日本の風土にむすびついた神を主要な崇拝対象とする。神道は神への信仰を中心としているが、教祖や教団、教義をもつ創唱宗教のように確立した体系をもたない。また、日本の風土や民俗文化をはなれて独自の歴史をもったことがなく、客観的な認識の対象となりにくい面がある。日本人の習俗や伝統と同一視されることもある。多くの日本人にとって、神道が宗教として強く意識されることはない。ほかの宗教との使い分けの中でなされる、伝統的な生活習慣にもとづく宗教的実践である。

日本では、古くから「八百万(やおよろず)の神々」といわれるように、ひじょうに多くの神の名が知られている。その意味で神道は多神教である。しかし、特定の祭神が厳密に意識されていない場合がほとんどで、それゆえに祭神名が途中で変更されたり、仏教など外来宗教の神格とも容易に習合された。これは、神祇(じんぎ:天地の神々)信仰が自然崇拝とアニミズムから発達し、稲作農耕の中で形づくられた氏神など共同体祭祀(さいし)をもととするものだったからである。

神も1カ所に定住するのではなく、祭りのときに、常緑樹でつくった神籬(ひもろぎ)や巨大な自然石の磐座(いわくら)にまねくものであった。 祭りごとに神をよぶという伝統は、同じ神をどこにでも勧請(かんじょう:分霊をむかえてまつること)できることになった。また、「くるしいときの神頼み」というように、必要なときにしか神を意識しないという、現在の日本人にも通じる神観念を形成した。これはまた、かならずしも専門の施設や宗教家(神職)を必要とはしない、教義以上に儀礼(作法)を重視する、ほかの宗教との習合や共存が容易である、などという神道のあいまいな性格のもととなった。

民俗宗教としての神祇信仰は、外来の宗教からの刺激という外因と、国家意識の高まりという内因とによって日本人に自覚され、さまざまに理論化されて神道という明らかなかたちをもつようになる。それは「神道」という語が、6世紀に大陸から伝来した仏教や儒教に対立する言葉として使用されはじめたことにもあらわれている。また、神をまつる施設である神社がつくられるようになるのも、仏教の荘厳な寺院建築に触発されてのことである。 古代の氏族社会では、氏族構成員がそのまま宗教集団となって、氏神や産土(うぶすな)神の祭りがおこなわれていたと考えられる。これが、7世紀後半からの天皇を中心とする古代国家の形成にともなって、国家の宗教へと再編されていく。

 

古代の歴史

8世紀に制定された律令制度のもとでは、行政機関としての太政官(だいじょうかん)とは別に、祭祀をつかさどる神祇官がおかれた。唐の祠令(しれい)、唐律などにならってつくられた神祇令(りょう)には、天皇がみずから中心儀式をとりおこなう鎮魂祭・大嘗祭、諸神をまつる相嘗(あいにえ)祭、すべての官人を神祇官にあつめておこなう祈年祭・月次(つきなみ)祭、伊勢神宮の祭りである神衣(かんみそ)祭・神嘗(かんなめ)祭、ほかの神社の鎮花祭・大忌(おおいみ)祭・風神祭・三枝(さいぐさ)祭、宮城を守護するための鎮火祭・道饗(みちあえ)祭という年19回おこなわれる13種類の祭り、天皇即位にあたっての行事、そして年2回の大祓(おおはらえ)など、日本独自の儀式が規定されている。

これと並行して「古事記」(712)、「日本書紀」(720)などの編纂もすすめられた。両書のはじめに「神代」としてえがかれる神話は、「記紀神話」とよばれている。天地開闢(かいびゃく)から、イザナキノミコト・イザナミノミコト2神による国生み(→イザナキとイザナミ)、その子アマテラスオオミカミによる高天原(たかまがはら)統治、ニニギノミコトを地上に派遣する天孫降臨(てんそんこうりん)などの話がしるされ、神武天皇以降の皇室による日本支配がえがかれる「人代」へとつづく。

記紀神話は、たんなる氏族伝承の集成や祭祀儀礼の神話化ではなく、皇室の系譜を天つ神(あまつかみ)の子孫として神秘化し、その絶対性を強調する意図によって書かれている。これが中世、近世における注釈や研究でさまざまに解釈されながら、皇室を尊重する神道説へと発展していく。 平安時代の神道古典には、斎部広成(いんべのひろなり)の「古語拾遺(しゅうい)」(807)、撰者を蘇我馬子(そがのうまこ)に仮託された「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」(807~936の間に撰録)、氏族の系譜を集成した「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(815)などもある。また、律令制の集大成である「延喜式(えんぎしき)」(927奏上、967施行)の最初の10巻は神祇にあてられ、国家の祭りでとなえる祝詞が「祝詞式」に、国家が幣帛をささげた全国の神社(式内社)の一覧が「神名帳(じんみょうちょう)」に記載されている。

 

 仏教との関係

奈良時代に国家仏教政策がすすめられる中でも神祇制度はつづけられ、宮中においても仏教行事(仏事)と神祇儀礼(神事)があわせておこなわれた。称徳天皇の時代、僧道鏡が政権の中枢をにぎったが、770年(宝亀元)女帝が没し、道鏡も左遷されると、神祇儀礼から仏教を排除しようという神道の自覚がおこる。この神仏隔離(しんぶつかくり)は、とくに朝廷と伊勢神宮に強く意識され、制度化されていった。 そのいっぽうで、ほかの神社では一貫して神仏習合がすすめられた。神々も仏法による解脱をのぞんでいるとして神前読経がおこなわれ、神社の境内に神宮寺がたてられ、仏像の影響をうけて神像がつくられた。平安時代にはいると、神仏習合儀礼によって怨霊(おんりょう)や疫神をしずめる御霊会(ごりょうえ)がはじめられた。また、石清水(いわしみず)八幡宮(→八幡信仰)、祇園社(→八坂神社)、北野天満宮(→天神信仰:天満宮)など社僧が支配する宮寺(みやでら)制の神社があらわれたり、霊山で修行活動をおこなう修験道が発達したりした。 8世紀末になると、神は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために仮に神に姿をかえてあらわれたとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が発生し、のちの神仏習合理論の基礎となった。平安末期には、伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音(→観音)などのように、ほとんどの神社の祭神の本地に仏や菩薩があてはめられていった。11世紀ごろからつかわれだした「権現」の号は、「仏が権(かり)に神として現れる」という意味である。

 

中世の歴史

平安末期ごろから、神道を理論的に説明する教説もあらわれ、中世以降さまざまに展開していった。その最初のものは僧侶による仏家神道で、大祓詞(おおはらえのことば)の解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の説明が、当時の仏教界の主流だった密教の教義をもちいてなされている。とくに真言宗系の両部神道では、金剛界(こんごうかい)・胎蔵界(たいぞうかい)の両部曼荼羅の大日如来が、伊勢神宮の内宮(ないくう)・外宮(げくう)の祭神と同体であるとの見解をうちだしている。天台宗系の山王神道は、比叡山延暦寺の守護神である日吉(ひえ)社の神を天台教学との関係で説いて、その優位性を強調する。いずれも、空海・最澄などに選者を仮託する偽書によっており、秘伝として伝授された。 鎌倉時代になると、僧侶による神道説に対し、伊勢神宮の外宮祠官の手によって形づくられた伊勢神道が発展する。伊勢神道は、伊勢における伝統的な神仏隔離を教説化しており、のちの神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)説の形成や近世の廃仏論に大きな影響をあたえた。 倉末期・南北朝期に活躍した卜部(うらべ)氏出身の天台僧慈遍(じへん)は、神儒仏三教を樹木にたとえて、神道が根本で儒教、仏教はその枝葉、果実であるとする根本枝葉果実説や、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説をとなえた。室町時代の吉田兼倶はこの立場を継承し、神本仏迹の立場から儒教、道教の理論などもとりこんで吉田神道を樹立する。江戸時代に確立する吉田家による神社、神職の組織化も、兼倶によってはじめられた。また、のちに豊臣秀吉が豊国大明神、徳川家康が東照大権現(東照宮)としてまつられるような、人間を神にまつることも吉田神道がはじめた。 中世には、霊験があるとされた神をまつる神社への信仰が高まり、そこへ参詣(さんけい)したり、その神を各地へ勧請したりすることも一般的になる。神社側では御師(おし)とよばれる下級神職が地方をまわり、講という信仰集団を組織した。こうした信仰の高まりの中で、参詣曼荼羅や縁起絵巻などもつくられた。

 

近世の歴史

江戸前期には、主要な学問とされた儒学の思想によって神道が解釈され、神道思想の中核を占めるようになった。これが儒家神道で、明確な廃仏思想に立脚し、朱子学や陽明学の立場から神儒一致的な神道思想を展開した。なかでも、朱子学系の吉川惟足(これたり)による吉川神道と、それをまなんだ山崎闇斎による垂加(すいか)神道が代表的である。 闇斎は、朱子学でいう「天人合一」の原理を神道にあてはめて「天人唯一之道」とし、人間には神霊が内在していると説き、朱子学が重視する「敬」が神道の根本道徳であるとした。また、「君臣の道」をひじょうに重視して、日本人として皇室をまもりとおさなければならないと強調した。その説には無理なこじつけもみられるが、深い宗教性と強烈な尊皇(そんのう)愛国の精神によって全国に多くの門人をもつようになり、幕末の討幕運動の一大拠点となった水戸学派にも思想的影響をあたえた。 江戸後期、国学の大成者である本居宣長は、それまでの仏教や儒教と習合した神道説を批判し、古典を実証的に研究することを通じて古神道の精神に回帰することを主張した。これが復古神道で、多神教的な神観念をあるがままにみとめ、神の恵みとしての産霊(むすひ)によって人間はおのずからただしい生き方ができるとした。 宣長の継承者である平田篤胤は、カトリック神学の影響も加味して、「古事記」冒頭に出現するアメノミナカヌシを宇宙の主宰神とするなど、宣長の説をこえる独自の神学をつくりあげた。また、祖先崇拝を強調し、神葬祭にも思想的根拠をあたえた。篤胤の思想は、垂加神道と同じく君臣の関係が強調されていたので、各地で尊皇運動に従事する門人も多く、大国隆正(おおくにたかまさ)のような明治維新後の神道政策を主導するものもあらわれた。 しかし、江戸時代の一般庶民の間には、これらの教説はほとんど浸透しなかった。現実の信仰としての祭り、年中行事、参詣の中で禁忌をまもったり清めをおこなう程度であり、神社も神仏習合的な色彩をのこしたままであった。庶民へはむしろ、正直(真心)、清浄、慈悲を強調する「三社託宣(伊勢、石清水、春日の神の託宣)」が吉田神道の教化材料ともされて流布したり、石田梅岩による心学や二宮尊徳の神儒仏一致的な通俗道徳思想がひろまった。 中世以来形づくられてきた伊勢、熊野など有力大社の講を中心とした信仰も、地縁的集団でおこなう産土神信仰と共存しつつ発展した。富士講のように修行をともなう講もあらわれた。講などによる人々の参詣は、目的をはたしたあとに門前町で精進落としの歓楽にひたり、みやげ物をもってかえるというもので、日本人の旅行の典型となった。 社会秩序の回復にともない、伊勢の式年遷宮(せんぐう)、践祚(せんそ)大嘗祭、賀茂祭などの国家儀礼が再興され、民間の祭礼も盛大におこなわれるようになった。その中には神事芸能として今につたえられるものも多い。幕末には、黒住宗忠(くろずみむねただ)による黒住教、中山みきによる天理教、金光大神による金光教など、独自の教義をもつ創唱宗教がおこり、江戸幕府の宗教統制の中にありながら、現世利益を中心に民衆救済を説いて勢力を拡大していった。これらは明治に教派神道として公認される。

 

近代の歴史

明治維新により宗教界は再編成され、神道も大きく様変わりする。明治政府は、その政治理念を復古神道において、祭政一致の精神で改革を推進した。1868年(明治元)から一連の神仏分離令をだして神社の内部から仏教的要素を除去させようとし、全国に廃仏毀釈運動をおこした。また、古代の律令制にならって太政官のもとに神祇官を再興させ、翌69年には太政官から独立させた。 国学者や神職からなる宣教使が新しく任命され、1870年の大教宣布(たいきょうせんぷ)の詔(みことのり)にもとづく神道教化運動が展開された。大教とは「惟神(かんながら)の大道」すなわち神道のことである。大教宣布運動は、73年まで布教禁止だったキリスト教に対抗するために国民の神道信仰を高め、天皇親政体制の意義を周知させるためのものだった。この運動は、72年に新しく設置された教部省に移管され、宣教使も名称を教導職とかえて、仏教勢力をも動員するなど、さまざまな試行錯誤を重ねたが、内部対立もあって順調にはいかなかった。 大教宣布運動がうまくいかなかった理由に、神社が「国家の宗祀」として社格制度のもとに国家の施設とされ、神官も世襲が禁止されて任命制の官吏となったことがある。神社非宗教論の立場から、神官が仏教とともに合同布教するのはおかしいとされたのである。1875年合同布教は中止され、82年には神官は教導職との兼務をとめられ、説教や葬儀に関与することも禁じられた。ここに祭祀と宗教の分離が確定し、89年に制定された大日本帝国憲法では信教の自由が規定されたが、神社神道は一般の宗教とは別次元のものとされた。翌1900年には、神社や神官を専門につかさどる内務省神社局(1940年に神祇院へと発展)がおかれた。 神社は信仰の対象ではなく、国民が義務として「崇敬」する対象とされ、ここに国家神道が確立した。このとき、神道の宗教的発展をねがう神官たちは、神社をはなれて独自な教派を組織することになる。彼らの神道系宗教は、幕末以来民間で布教してきた諸宗派とともに、教派神道として公認されていく。 皇室の仏教施設、行事はすべて廃止され、宮中には賢所(かしこどころ)、神殿、皇霊殿からなる宮中三殿がつくられた。そこで天皇によって、古代の律令祭祀にもとづく新嘗祭などにくわえて、新しく記紀神話にもとづいて創始された祭りがおこなわれた。元日のほか、2月11日の紀元節(神武天皇即位の日。現在の建国記念の日にあたる)、11月3日の天長節(明治天皇の誕生日。現在の文化の日)が祝日とされた。 これら祝祭日には、皇室の祭祀と直結したかたちで全国の神社で統一的な祭祀がおこなわれた。学校でも、天皇、皇后の肖像である「御真影(ごしんえい)」への最敬礼、教育勅語の奉読、君が代斉唱がなされ、各家庭で国旗を掲揚するなど、天皇崇拝を象徴する日ともなった。この背景には、「万世一系」の天皇を頂点とする日本の支配体制を「国体」として正統化する皇国史観が確立し、それにもとづく学校教育により、「現御神(あきつみかみ)」としての天皇のイメージが国民にうえつけられていったことがある。

 

現代の神道

第2次世界大戦後、国家神道は占領軍の民主化政策によって解体された。1945年(昭和20)終戦の年の12月、神社に対する国家管理を撤廃させる目的で「神道指令」がだされ、翌46年元旦には、天皇がみずから神格を否定する「人間宣言」がだされた。これにより、神祇院などの官制や神社・祭祀関係の法令はすべて廃止され、宮中祭祀も天皇の私的行為とされて公的性格を喪失した。 国家の管理をはなれた神社界は神社本庁を設立し、文部省所管の宗教法人として新しい体制に対応した。神社本庁は現在、宗教法人の認可をうけている神社の大多数である約8万社を組織している。教派神道は、ほかの宗教と同様に戦前の宗教統制から解放され、日本国憲法で保障された信教の自由にもとづいて活発に新宗教的な布教活動を展開し、新たな分派や独立教団も生まれている。 神社に対する国や地方公共団体からの公的援助は消滅し、ふたたび地域住民によってささえられる信仰の場として機能するようになった。神社本庁は9369万9335人(1994年12月現在)の信者(崇敬者)がいるとしているが、結婚式や神葬祭をしたり、受験や交通安全などの祈願をするときぐらいしか神社にかかわらない人も多い。共同体意識が解体し、若者が宗教離れをしていく中で、宗教施設としての神社は新たな対応をせまられている。 神道の儀礼が、宗教であるのか、あるいは日本国民にとって普遍性をもつ習俗であるのかという問題については、いまだに決定的な解答をえていない。地鎮祭への地方自治体の関与、殉職自衛官の合祀、忠魂碑建立への公費支出、総理大臣の靖国神社参拝、天皇の即位の礼・大嘗祭の問題などは、政教分離の原則からはずれた違憲の疑いがあるとして司法の場にもちこまれ、現在係争中のものも少なくない。

 

氏神(うじがみ)

現在では、生まれた土地の神である産土神(うぶすながみ)や、一定の地域・建物を守護する鎮守神と同一のように考えられているが、もともとは、血縁を同じくするという意識でまとまっていた生活共同体である氏神の共通の祖先と信じられ、氏族の長である氏上(うじのかみ)が司祭した神をいう。このもとの姿をよくのこすのが、天皇家とその祖先神をまつる伊勢神宮との関係である。 また今日、かならずしも純粋の血縁集団ではないが、1村の区域内にある同姓の家の構成員で共同の祖先神をまつり、産土神や鎮守神と区別するために、これをマキ氏神、イッケ氏神と称しているところもあるし、家の屋敷神を氏神とよぶところもある。 古い文献では、「旧事本紀(くじほんぎ)」に物部氏が布都(ふつの)大神を大和の石上(いそのかみ)にまつって氏神としたことや、「新撰姓氏録」に竹田・川辺連(むらじ)が大和の十市(現、奈良県橿原市十市(とおいち)町)にある竹田神社を氏神としてその地にすんだという記事などがみえる。古代には氏族が社会組織の単位をなし、同族によって村落が構成されていたから、血縁集団がすなわち地縁集団をなしていたと考えられるが、それでも先の竹田神社の例で想像されるように氏神はかならずしも始祖であるとはかぎらなかった。おそらく生業にとってなければならない霊威あるものが、氏神としてまつられた例もあるのであろう。 氏族の祖先神ではないものを氏神とした代表的な例は、源氏にとっての八幡神(→八幡信仰)がある。武家社会では土地を中心とする地縁を重んじていたが、一方で軍事的結束の必要から一門・一党をまとめる意味で、擬制的な氏神をまつることがおこなわれていた。 さらに移住が頻繁におこなわれるようになると、村落構成は複雑化し、依然として氏神と産土神・鎮守神を区別しながらも、村を守護する神としては、それらの性格の区別をあまり問題としなくなったと考えられる。

  参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.