TOP > 良忍 1072~1132
良忍 1072~1132
良忍(りょうにん)の教えとは,念仏はすべてのものにとけあうとする考えに立ち、
口称の念仏で浄土に生まれると説いた。
経典 華厳経(けごんきょう)=大法広仏華厳経(どいほうこうぶつ)
妙法蓮華経、無量寿経(むりょうじゅきょう)、観無量寿経、阿弥陀経
本尊 十一尊天得如来画像
阿弥陀如来を中心に十体の菩薩像が描かれた画像
総本山 大念仏寺(大阪)
日本十三宗の一つ。天治年間、良忍が開いた浄土教の一派。
華厳経・法華経を正依(直接のよりどころ)、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経を傍依(間接の副次的なよりどころ)とし、弥陀の直授による教えに基づいて、念仏はすべてのものにとけあうとする考えに立ち、口称の念仏で浄土に生まれると説くもの。総本山は大阪市平野区平野上町の大念仏寺。融通宗。大念仏宗。
平安後期の僧で、融通念仏宗の開祖。号は光静(乗)房。尾張(おわり)国知多郡に生まれる。父は郡の領主秦道武、母は熱田社頭大宮司の娘とつたえられる。12歳のとき比叡山檀那(だんな)院の良賀のもとで出家、顕密二教(顕教と密教)をまなんで、園城寺の禅仁に戒法を、仁和(にんな)寺の永意に両部灌頂をうけ、比叡山では常行三昧(さんまい)堂の堂衆をつとめた。やがて京都大原に隠棲(いんせい)し、来迎(らいごう)院をたててすんだ。 1117年(永久5)、念仏の最中に阿弥陀仏の示現をうけ、1人の念仏が万人の念仏に通じるという融通念仏宗をひらいたという。集団で唱和する融通念仏でひろく諸国を布教してあるき、摂津国平野に修楽寺(後の大念仏寺)をたてて根本道場とした。また、比叡山の堂衆時代にまなんで以来声明(しようみよう)に巧みなことでも有名で、天台声明中興の祖とあおがれている。著書・言行録はなく、「融通念仏縁起」が絵巻としてのこる。
声明(しようみよう)
日本の仏教儀式にもちいる声楽曲。僧侶の男声によってとなえられ、単旋律を独唱または斉唱するのを原則とする。一部に楽器の演奏をともなうこともある。
仏教の経典の韻文に旋律をつけた声楽曲は古代インド以来のものと推測され、前1世紀ごろに中国につたえられたらしい。日本には、中国への留学僧らによって奈良・平安時代に仏教儀式とともに伝来し、当初は梵唄(ぼんばい)や唄匿(ばいのく)などとよばれたが、平安末期以降、声明というようになった。「声明」は、本来は古代インドの言語・音声学を意味するサンスクリット語を漢訳したものである。
声明は本声明と雑声明にわかれる。狭義では本声明のみを声明とする。
本声明には梵語や漢語による外来系の声明とそれらの様式に準じた和製の声明などがふくまれる。讃(梵語讃・漢語讃)・伽陀(かだ)・唄(ばい)・散華(さんげ)など、1音節を長くひきのばしてうたう詠唱的な声明が代表的なものである。
雑声明は平安時代以降につくられた日本語による声明で、漢文訓読体の祭文(さいもん)・表白(ひょうびゃく)・神分(じんぶん)・講式・論議、七五調の和文による和讃などがある。
和讃には法要で僧侶がとなえるものと一般の信徒が講をつくってとなえるものがあり、後者は、巡礼に際して信徒がうたう御詠歌と同様、声明にはふくめない。以上の名称と旋律には宗派による異同がある。
声明の内容は曲によりことなり、法会(ほうえ)の種類に応じて、曲目編成と進行がきめられる。一般に法会は4部分からなる。
第1は法会の導入部で、道場に僧侶が入場し、仏法僧に三礼し、供物をささげ、道場に仏や菩薩の降臨をねがう。ここでは、総礼(伽陀)・三礼・供養文・讃・祭文・勧請(かんじょう)などをとなえる。
第2は、仏・菩薩をたたえて道場を荘厳(しょうごん)する部分で、唄・散華・梵音(ぼんのん)・錫杖(しゃくじょう)をとなえる。この4曲をともなう法会は四箇(しか)法要とよばれ、梵音と錫杖を略した二箇法要とともに、法会の基本的な形式のひとつである。
第3は法会の目的を遂行する中心部で、表白・神分・仏名・前唄礼などではじまり、経・講式・論議・偈(げ)・真言などの核となる部分をへて、合殺(かっさつ)・念仏・宝号・後唄礼などにつづく。この部分の内容により、法会の目的と名称がきまる。
第4の部分では法会の功徳(くどく)が法会の参加者と衆生におよぶことを願う回向(えこう)などをとなえ、最後に三礼しておわる。声明はその後の日本音楽に多大な影響をあたえた。朗誦的な講式は、平曲、謡曲、浄瑠璃など、その後に成立した語り物の声楽の源流となった。また、ユリなどの類型的な旋律型(曲節ともいう)によって構成される旋律構造は、日本音楽の特徴のひとつとなった。声明の楽譜を博士(はかせ)というが、その記譜法は謡曲などの楽譜にとりいれられた。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.